戦乱の果て ~ 晴嵐の国境戦


長き平和な縄文時代がつづいた後、西の方から弥生人が入ってきてから古代には根拠のよくわからない税を取り立て支配するやっかいな社会制度が始まりました。
しかし程なく律令制はほころびはじめたという。
その兆しの跡を懐かしむ旅として、最初に都に刃向かった東の兵の乱の跡を彷徨い歩いていきます...、





・王国の周辺第三章 戦乱の果て ~ 下野・小山、国境線上の戦い

最初に記録に残された都への反乱、将門記に記された野本の戦いの茨城の鳥羽の江という辺りに向かったものの、まったく史跡のようなものはなく、
その戦いもまだ家族内の仲たがいに過ぎなかったようです。
しかし関東武士の成り立ち背景はその土地や血統という文脈でより明解になったことは収穫でした。
最初の律令制への反乱はその後どう進展したのでしょうか。

平将門では野本で源護の子等と戦った後、親類の平良正と川曲村(下妻の辺り)で戦い再びなんとか勝利したとあります。
さらにその後、良兼に助けを求め良盛とともに北方から将門を攻撃するために下総、下野国境に集結しましたが、
それを察知した将門はこれに対し、相手数千騎に百余騎で戦いに挑んだとあります。

残念ながら、どの文献を探しても下野国境の戦いがどの辺りかを示す資料が見つかりませんでした。
先週末用事で下野を通りかかったので、国府跡を探そうとしたところ天候がたちまち急変し雷鳴と豪雨が始まりました。
もちろん天気予報もこの日関東は曇りで、だれも雨具は持たず、バイクも軽車両でさえも進めない程です。

しかし異常なことに天の水門が開いたような洪水でありながら太陽が光輝くという、この世の終わりが来たかのような天地をひっくり返す様相となりましたが、
小山市役所に辺り来たところ、突如大雨が止んでつかの間の静けさが訪れたので休憩することにしました。
確か市役所の傍に武士の館跡のようなものがあったと記憶していました。

期日前投票の看板が立っていて数十秒前まで豪雨だったのに、わずかな晴れ間に投票にきている親子連れがいて、兵がいるなとおもいました。
地方都市の市役所らしい遺跡のような古い庁舎もあちこち補強工事中で、その工事現場の中をくぐって裏庭に出たとき、
そこには驚くほど広大な敷地が広がっていました。

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(誰もいない、小山御殿跡の敷地)

御殿跡の敷地の説明板によれば、この地も平将門の乱の由来があり、乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫が12世紀に小山氏となったとあります。
小山氏は最初頼朝を助け鎌倉幕府成立に貢献したものの、その後14世紀には政府と対立しやがて衰退していったようです。
城内には祇園牛頭天王社が祭られ祇園城といわれていたとのことです。
14世紀末には秀吉の攻略により城を没収され、さらに後に徳川家の宿泊所となったとされています。

そして世に言う慶長五年(1600年)、7月25日の小山評定がこの地と推定されているというのです。
初めて都の中央権力に東の兵が逆らい始めてから、長き戦乱の果てに、最後に天下分け目の戦いを成し遂げ、
戦国時代を終結させた、かの関が原の戦いの勝利を見切り決意したのが、こんな東路のなお奥つ方という、
まるで浮雲のように去ってはまた飛んでくる、縦横機略な東の兵の機動力の広さを思い知らされたしだいでした。




参院選でこの週末にかけての晴嵐は野党に味方したといえましょう。
なん風かあるいはせた風を使ったか、いや、せた風に唯一対抗できるこれは、
すさの琴か、そして参院選の結果は東の兵が駆けていた関東地方を見る限りは、不利でありながらほぼ互角の戦いとなり、
まずまずの結果だったのではないでしょうか。

まずは選挙を戦った東の兵たちの健闘をたたえたいとおもいます...




(王国の周辺第三章)戦乱の果て ~